本夕高台寺へ行ってきた。後半に書く。

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 暑中お見舞い申し上げます。


 酷暑のなかでも、相変わらず風景をスケッチしつづけている。


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気温は38度ぐらいか。40度になるときもある。

風景をスケッチできるのは周囲に気を配ることができるからである。

この時期、お盆なので家族連れで散歩に来る者、小学生以下の子どもたちや小学生らがボール遊びやバトミントンや蝉とりに夢中になっている姿が散在していた。

この暑い時期に外で描く自分も馬鹿であるが、ここに来る家族連れもまたアホとちゃうか?笑なんて思ったりもするぐらい、とても



暑い。 

ホット(hot)、ホッター(hotter)、ホッテスト(hottest)!!!と比較級の3段活用したくなるほどの暑さである。


 hotとは、暑い。

 hotterとは、めちゃ暑い。

hottestとは、気絶級に暑い。


という意味だが、どこと比較するかが問題である。


38度は、50度のフランスに比べたら、涼しいでしょう。


しかしハワイの20度に比べたら、めちゃ暑いだろうし、南極の5度に比べたら、気絶級に暑いということになる。

描いているときは比較する気にもならないぐらいだ。今こうしてクーラーの効いた部屋で書いているから、比較の余裕ができるのである。とても涼しい。昼間は地獄だ。


10分置きに水分を補給している。


日傘は必須。イーゼルにつけた日傘は効果抜群である。

それからサングラス(黒)と、紫外線対策のUVカットマスク(黒)も装着している。


マスクは暑いと呼吸困難になる。


後頭部を守るために今度新しい帽子にしなきゃいけないかなと思った。

日本兵がつけているような帽子だ。


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普段からハンチング帽をしていると、後頭部に直射日光が当たると、体温が非常にあがる。

この日本兵がしているタイプのカバーがついているとそれを防止できる。

間に合わせにタオルを後頭部の周りにかぶせると、ぜんぜん違った。

一気に涼しくなるのである。

しかし、こんな帽子は太平洋戦争中であれば違和感がないけれども、この令和の時代に似つかわしくない。


日よけのついたサファリハットのメンズ用が2千円であるから、それを買って使いましょう。

これ完璧やな。。 あとこれにサングラスをつけるだけでいい。
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そういえば今日は終戦記念日だったね。


太平洋戦争に絡む話をこのあとちょっと書こう。





そんな折りに、散歩をしていた男性が近寄ってきて、

「ちょっと見せてもらいますか?」と訊いてきた。


これまで何人もこうした人との交流があるので、手慣れたものである。

「どうぞ」

「桜の並木ですね~。 あれ? 向こうに山はありましたっけ?」

自分のスケッチを見た男性が桜並木の向こうを見たが、そこには山はなかった。


だから自分は椅子からたちあがって、「ちょっとこちらに来てください」と笑って言った。


自分と男性は並んで桜並木を通り抜け、芝生にあがり、そこから10mほどのところで、自分は左を
指さした。


「ほら、あそこに山があるでしょう?」

「あ! ほんまですね! へえ~ でも、あの位置からだったら、あの山を見ることはできませんよね」

 「そう。だから遠景をここで描いて、近景をあの桜並木の近くで描いたんです」


すると男性は驚いて「ほお~!! 聞いたことがない描き方ですね」

元の位置に戻りながら、男性は自分に語りかけた。

「いや驚きました。普通は見た目どおりに描くんですけどね」

この方は多少画心があるように思われた。

「ふつうはね。ですが、あの桜並木から描くと空がぽっかりと空いてしまうでしょう? 構図として極めてつまらないんです。陳腐であり、そもそもバランスが極めて悪いんです。桜並木の設計は、あの山を借景として作っているわけではないので、絵画的に計算された公園の設計にはなっていないのです」

 その男性は元の位置に戻ってスケッチを見た。

「なるほど山がある。でもここからは見えない。おもしろいですねえ」

「だからこの画を見て、場所を特定しようとここに来ても、桜はあるけど、山がない。それを探すと見つかるというわけです」

「2つの風景を合成しているんですね」

「そうです。その間の距離がわずか20mほどです。見えないところを描くんです。でも実際に存在します」

「今まで気がつかなかった視点でした。いやあ~感動しました。どこにお住まいですか? 明日もここに来ますか?」

立て続けに質問されたので面食らってしまったが、自分はどこそこに住んでいて、あちこち移動して描くので、明日もここに来る予定ですが、この時間帯に来るかどうかはわかりません笑」と答えた。

「色塗りが楽しみですね~」

まだ鉛筆だけのスケッチなので、その予定はトレーニングの一環であることを言った。


「本画にするかどうかは、いろいろとスケッチをしてから検討しますので」


そう言いながら自分はまたイーゼルを移動して、山の見える位置に移動した。


男性は感心しながら何度も振り返り挨拶して去った。

今日起きたことを想いだして書いたまでである。

技法は100を超えるから、そのひとつのトレーニングをしたまでである。

自然ははっきりいうと、個々に美しいが全体の調和がとれているところは、極めて少ない。

ばっちりすべてが決まっている風景は、めったに遭遇できないと心得なければならない。

日本には借景という建物の設計方式がある。お寺にゆくとそういうところがある。龍安寺がそうかな。他にもいろいろある。この古来の伝統様式は、自然と建物を一体化させるために作られた設計方法である。建物から見える庭と塀とその向こうに見える風景の関係性は緻密に計算されて、建物の敷地と建物の方向を厳密に指定している。

庭に白州がひかれ岩を点在させ川をイメージしているのもある。小さな山を築き、山脈と川とを眺め下すような庭となっている。それを宇宙空間と例える者もいる。


庭に自然があり、塀のそとにも大きな自然が広がっているのである。


塀の外の自然をいじることはできないが、塀のなかの自然は見事に設計することができる。自然は設計されることでとても美しくなるのである。これを画で表現しているまでだ。だから特にたいしたことをしているわけではない。絵画は設計書でもあるのである。もちろん感動が先であるが。それがなければ設計する気にならない。自然は動かない。だから人間が動いてゆかざるをえないのだ。相手は変わらない。だから自分が変わるようなものである。キュビズムの多視点もしかり。この視点がほんとにわかっていない絵かきは多いからね。彼らは学習不足です。


ま、こういうお堅い話はさておいて。


 蝉がやかましい。周囲に岩がいくつもあったので、それも描いたついでに、動画も撮ってしまった。

 芭蕉の俳句を思い出したからである。映像に自分が書いた芭蕉の句を添えた。
漢字を使わなかったのはマウスで書くと時間がかかるからである。それにマウスで文字を書くと強弱がつけられない。だが、おもしろいものに仕上がった。最後は笑えるかも。


 


 「しづけさや いわにしみいる せみのこえ」

これは倒置法を使っているね。名句だ。奥の細道にある。

蝉は有機物であり、岩は無機物である。

有機物から発せられた音が無機物に吸い込まれる、物理上の観点から示すとつまらない。

岩の静かな存在を示すために作られた句であろう。

芭蕉は忍者でもあったから諸国を自由に行き来できたのであろう。この俳句が作られたときの寺が存在しているらしい。自分が撮影した場所はただの林のなかである。

次に終戦記念日について、こんなことを書いておこう。単純な靖国参拝ネタではない。もっと深い話である。


 事実には3つある。

 重要性の順番は最後にまとめる。


 ①今の事実

 ②過去の事実

 ③未来の事実



 実は、今の事実には過去の事実も入っておれば、未来の事実も入っている。

「未来は未だ」ではなく、「未来は今だ」である。


 過去の事実とは、たとえば、原爆投下の事実である。


 しかし、原爆が投下された時代の人々のなかには、未来の事実が入っている人と、そうでない人がいる。


 前者の場合は、最高機密を把握していたごく一部の人たちである。


 後者の場合は、それ以外のすべての人たちである。



 原爆の存在を知っていて、原爆を落とすと何が起きるか。ネバダ州にて数多くの核実験を遂行していた者たちだけが知っていた未来の事実である。


 不自然なる人為的な行為であるかぎりにおいて、未来の事実を知っている者はごくわずかである。

 原爆が投下されたあと、天皇の玉音放送を聴いて泣き崩れた者たちは、敗戦をそのときに初めて知った。彼らは必ず日本が勝つと最後まで戦うと誓った者たちである。

 彼らは大日本帝国が創り上げた妄想の世界のなかで生活していたために、それが崩れたときに初めて現実を知った。


 未来の事実を知らなかったために、今の事実がその事実に追いついたとき、そのとき初めて知ったのである。


 これを無知というが、ひとつの環境下における全員が知らないときには、無知にならざるをえない。無知の判断は必ず間違う。馬と鹿の区別がつかなくなるからだ。つまり、馬鹿なことをしてしまう。


 他の環境においては、それを熟知している人がいる。馬鹿でなく、馬鹿をコントロールする人である。


 ここに、太平洋戦争を終結させるに至ったひとつの艦船がある。それはのちに沈没したが、無事に役目を果たした重巡洋艦である。それは悲劇の船でもあった。


 悲劇は馬鹿を襲撃する。



 インディアナポリス号の悲劇は、馬鹿ばっかりが集まってきた事件である。



 馬鹿な艦長は、アメリカ軍の最高機密の木箱の2つをフィリピン海にあるテニアン島に届ける指令を受けて、これまた海軍兵学校を優秀な成績で卒業した馬鹿ばかりの集まった若き将兵1200名とともに。1945年7月にサンフランシスコを出港した。


 2つの木箱に何が入っているのかは、インディアナポリス号の乗員全員が知らなかったのである。

 艦長がわかっていることは、フィリピン海には大日本帝国海軍の潜水艦がいることは事前情報だけである。

 だから潜水艦対策に護衛艦をつけてほしいと軍の上層部に嘆願したが、最高機密の物を送り届ける任務においては、護衛艦をつけることはできない、潜水艦に探知される可能性がたかい艦内のクーラーをつけることもできない(真夏においての艦内は過酷な暑気に苛まれることになる)、無灯火で夜間航行しなければならないといった、乗員にとって極めて不利な条件を上層部は艦長につきつけたのである。無線通信も禁止である。日本軍に傍受される可能性があるから。



 可能性の高い潜水艦による襲撃に対して、インディアナポリス号がとれる対策はほとんどなかった。


 つまり、インディアナポリス号は、表向きは現実に存在していない艦船であるから、万が一沈没しても、アメリカ軍は助けにゆくことができない状況のなかでの出航であったのだ。


 インディアナポリス号は、7月26日にテニアン島に無事に到着した。


 それから最高機密の木箱を2つ、テニアン島の軍司令部に引き渡した。それを軍司令部はエノラゲイに積み込む巨大な爆弾に装着した。


 艦長は司令部にここでもまた、「護衛艦をつけてほしい」と嘆願したが、司令部は「君たちは存在していないからつけるわけにはいかない」と一蹴された。


 しかたなく、ここに来たときと同じ状況のまま、インディアナポリス号はサンフランシスコへ向けてテニアン島を出港した。


 そして、フィリピン海のどまんなかで、真夜中に、日本軍の1隻の潜水艦から発射された3発の人間魚雷(回天)によって、沈められた。


 太平洋戦争において最後に沈没した艦船と言われている。


 インディアナポリス号は、大火災が起きて、そこで300名ほどの乗員が焼死し、それからタイタニックが沈む如く、艦船は真ん中から折れ、折れた部分に引きずり込まれるように、わずか10分で沈む。


 海面に飛び込んだ残り900名の乗員のなかにも艦長はいた。彼らのなかには救命胴衣をつけている者もいたが、その多くは艦内にいたときのままの普段着である。

 艦長の咄嗟の判断で、2人乗りの小さなゴムボートも数多く海面に投げ出されていたから、それらに泳いで掴まった者もおれば、溺れて死んだ者も多い。


 海面に漂流する900名の乗員たちの四方はすべて水平線しかない。


 彼らは寄り集まってグループ化した。


 そこに大量のサメが襲いかかってきた。


 海面すれすれに泳ぐサメが乗員たちの恐怖をあおった。


 乗員たちはつぎつぎとサメにかみつかれ海中に引っ張り込まれた。

 あちこちの海面が血の色に染まる。


 仲間がひとり、またひとりと失われてゆく。


 サメは地中から這い出てきた大量のミミズのごとく海面を縦横無尽にのたくっていた。


 彼らは4日間漂流した。飲み水も食べ物もない海の上である。


 彼らの存在は絶望視されたが、4日後に1機の哨戒機が海面に浮遊する大量の油を発見して低空飛行をしたとき、発見された。


 救出されたのは、300名足らずである。海面に投げ出された900名のうちの600名の乗員は、衰弱による水死並びにサメによる襲撃で死んだ。


 のちに軍事法廷にて、生き残った艦長の責任が問われた。


 最高機密の物資を運ぶ任務の言い訳は、法廷では通用しなかった。


 また艦長には毎晩のように遺族からの責任追及の電話がかかり、心身ともに衰弱していった。


 そして妻の病死後、拳銃で自殺した。



 インディアナポリス号の悲劇はこうして幕を閉じた。


 艦長の心神耗弱を知った者がいる。


 インディアナポリス号を撃沈した日本の潜水艦の艦長であった。


 彼はインディアナポリス号の艦長の窮地を知り、できるだけ身の潔白を晴らそうと努力したが、それは効を奏しなかったのである。


 ここらはたいへん複雑な心境になる。



 インディアナポリス号に載せていた2つの木箱は、原子爆弾の部品であった。


 日本の潜水艦の艦長も、インディアナポリス号の艦長も、事件が起きた当初は、まさか広島と長崎に落とされる原子爆弾の部品であることは知らなかった。


 アメリカ軍の最高機密事項だからである。


 軍の一部のひとたちだけが知っていて、それを実行したら何が確実に起きるかも知っていた。


 これが未来の事実である。

 2人の艦長は、原子爆弾という過去の事実を知ったとき、もっと早く知っておれば、日本の潜水艦の艦長はテニアン島に到着する前にインディアナポリス号を撃沈したであろうし、インディアナポリス号の艦長は原子爆弾の威力を知っていて、その部品をテニアン島に送り届ける物がそれだとわかっていたならば、任務を拒否したかもしれない。


 あの時、いろいろと事前に知っておれば、もっと別の道をとることができたかもしれない。


 これを馬鹿な後悔先に立たずといいます笑。


 3つの事実のうち、最も重要なのは③未来の事実である。


 事前にそれが把握できておれば、①今の事実を変更し、それが②の過去の事実になるからである。



 政治とは必要最小限の労力にて、最大の効果を発揮すること。


 いつも被害を受けるのは無知のまま指令を実行することである。





それから夕方高台寺へ行った。


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ひとだかりがする。彼らは本堂前の白州庭に向いていた。
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見ると驚いた。1


うわあすっごいな。白州に色つけちゃってるよ。

本堂からも多くの人が見ていた。 なんだこれは?
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本堂中から見るとこうなっていた。


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色とりどりの川だ。


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イリュージョンのために色を置いたのだろうが、派手な庭になった。

本堂のなかにはゆるキャラがあった。

ねねさんと秀吉君である。

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オシドリ夫婦ですね。

秀吉が病死したあと、ねねさんは出家して、高台院と名乗った。

それから徳川家康が、高台院の隠居のために作ったお寺が高台寺である。


ゆるキャラまで出現させてしまうとは、・・・・・・前に来たときはいなかった。

最近できたゆるキャラなんでしょう。


もうほんとにいろんなところでゆるキャラが誕生しているね。

知らないうちにポコポコ湧いてでてくる。

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 調べると今年のゆるキャラグランプリに出場するそうだ笑。

 普通に歩いているだけだったら、目立たないだろうね。他と一緒だ。

 何か踊りが出来るか?暴れるとか、いろいろ出来ることがあると注目されるでしょう。

 特技があると、入賞する可能性がでてきますね。


 この時代の話を書くと長くなるからやめておく。簡単に書いておく。

 高台院こと、ねねさんは極めて温厚な女性であり、敵からも好かれたそうだが、側室の淀君をたいへん嫌っていたそうだ。淀君の横柄な態度は、秀頼を産んでから始まる。ねねさんとの間に子がなかった秀吉との距離は秀頼の誕生をきっかけに疎遠になった。いかに温厚なねねさんも腹立たしくなるのは当然であろう。

 その淀君が大阪城夏の陣にて秀頼とともに自害したとき、それを知ったねねさんはどのような気持ちになったでしょうか。

 大阪の陣にて豊臣家を滅ぼした徳川家康は、ねねさんの気持を痛いほどわかったのであろう。だから、実子を持てない秀吉の正妻を厚遇したのである。

 秀吉とともに天下人となっても、誰に対しても公平に接しとても優しく思い遣り深かく、家格の格差を設けなかったねねさんの心意気は、豊臣家大老時代の家康の心をもとろかしたのである。

 ねねさんは、秀吉がサルと信長から呼ばれた時代から、夫が天下人になってからもずっと変わらない庶民の思い遣りをもっていたそうだ。そしてその死まで誰からも好かれたほがらかな女性であった。理想的なあげまんでしょうね。秀吉は気性が激しく落ち込むことも多かったそうだが、そのたびに秀吉を励まし続け前進させた。天下人の影の立役者である。


 
 最後に撮影した光のイリュージョンを載せておこう。

 龍のときに比べてちょっとしょぼい感じになったかな。

 夏のイリュージョンは、百鬼夜行がテーマ。


 本堂には百鬼夜行のまき絵がいくつもあった。撮影禁止らしいが、たいしたことのない絵である。鳥山石燕のぱくりばかりでしょう。

 そもそも妖怪は仏教の法話と同レベルの創作である。

 百鬼夜行は、物を大事にせず粗末に扱う者への戒めのために作られた妖怪。

 妖怪を生み出すのは人間の粗相からである。

 人間はむしろ妖怪よりもはるかにタチの悪い生物であると言えるだろう。