綺麗にするのは当たり前。

 だが、美しくするのは当たり前なんだろうか。

 当たり前に美しくすることは果たしてできるのだろうか。


 そもそも美しいとは何か。


 芥川龍之介の作品に「地獄変」がある。

 画家は白ヘビのような自分の娘が火刑に処され牛車のなかで火だるま状態になり苦しむところを屏風に描く。

 そんな凄絶なオチであった。

 自分の娘が苦しみもだえる様を思い出して描く。それはもう自分の娘ではない。

 画家はこれを美しいと思ったのだろう。

 娘は綺麗な服を着ている。

 だがあくまで綺麗な服である。

 美術の目的は綺麗を目指すことではない。そんなもの誰でも綺麗にすることができるからである。 そんなものを描いても、美の追求にならないのであろう。

 娘が炎のなかで燃え盛る様を画家は美しいと思ったのである。

 画家の美に対する執着は、世人の理解をはるかに超えたものである。


 速水御舟の名画に「炎舞」というのがある。

 めらめらと燃え上がる炎の熱気に包まれながらも7羽の蝶が舞う姿が描かれている。

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速水御舟「炎舞」
重要文化財
1925年作
絹本(けんぽん)彩色
120.3cm×53.8cm

 思うに、ともに創作であるが、彼の空想と芥川の地獄変の描写と似通っているところがあると言えるだろう。

 
 美しい娘が老いると醜くなる。そうなる前に燃やしてしまえ。美の痕跡は、画家の脳裏にだけ刻みつけることができればいい。これが地獄変における父親の美への執着である。

 蝶はその姿のままが美しい。その儚い命を永遠のものとするために、御舟は炎のなかで躍らせたのである。蝶は燃えながらその飛ぶ美しい様を人間の記憶のなかに刻み込んでゆく。


 綺麗は心構え次第でいつまでも持続することはできるが、美は儚い。これが命だからである。



 人間見た目10割ともいわれている。

 その見た目とは何か。

 自分は美しい服を知らないが綺麗な服はたくさん知っている。

 自分は綺麗な身体を知らないが(風呂入るのは当たり前だからね)、美しい身体を知っている。

 そもそも健康ブームは、人間の内側から美しさを取り戻すことにある。

 おそらく地獄変における画家自身が求めた娘の美しい身体がいつか損なわれることに画家自身が恐ろしさを思ったのであろう。画家は綺麗な服が燃えてゆくことには何ら目を向けず、そのなかの美しい身体が燃えてゆくさまをしっかりと脳裏に刻んだことであろう。

  自然は老いと寿命を人間に突き付ける。だから健康志向というのは時代の技術の進化にともなって必然として現れてくるのである。