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 何も思いつかずに日々を生きている人は、先へ行く人ではなく、単に歩調を合わせているだけである。
 

 だれでも思いつくことを実行している人のことを半歩先へ行っている人という。株式投資がこれであり、経済そのものだ。経済は誰でも思いつくこと気が付くことを先に実行している人が牽引している。


 一方、誰でも思いつくことではないことを実行している人のことを一歩先を行く人である。

 未来に到来するであろう事柄を、先に自覚した者の行為であって、時代がまだ追いついていない状況のなかで奮闘している者である。


 先覚性というべきか。


 これは物事の本質をトコトン追求した者のみが、そこに着手しはじめる。時代はやがて本質へ向かって突き進んでゆくことになるのだが、その流れはとても緩やかである。


 半歩先と一歩先の相違を明確にするために、ここであえて半歩先の事例を紹介しよう。

 株式相場。金相場。これらである。


 相場師というのは、先読みが必要でありそれに長けた者であるが、時勢や時流の流れを的確に読んで、次に株価が上昇するのはここだと見定めると、そこへ投資する。


  株価は大きな波と小刻みな流れがパラレルに移行しており、上り幅と下がり幅の差で大きな波の流れがわかる。具体的には20日線で十分である。


 これが半歩先である。


 言い換えれば経済には本質というものが存在していないことをここで示しておこう。

 経済にはドラマがあり、大衆ネタがあり、ニュースがある。ドラマとは葛藤である。

 株価があがるかさがるか。これも葛藤である。こうした葛藤は、いずれ消えてゆき、また新たな葛藤が生まれる。その繰り返しであり、それは延々と続く。そこは論理と感情の双方が人間の判断基準となる。それも表層的な。

 経済に本質がないというのは、あくまで表層的に物事を判断しているからである。

 それは価値ある物を安いときに入手し、高くなったら売ることだ。


 この価値というのもまた、時流にしたがって変動してゆく。だから本質ではない。


 原則として潰れたブランドの価値は無名ブランドの価値に成り下がる。ブランドとは、知名度を維持し、品質をさらに向上させつづけることを延々と弛まず繰り返してゆかねばらない。それが潰れると、その名は遺物にもならないであろう。商品だからである。

 これが表層的に物事を判断しているということだ。

 本質は、こうした判断とは無関係に太古の時代から未来永劫に向かって変わらないものである。人間がどのような目で見ようと、まったく無関係のものだ。


 たとえばトマトの本質はトマトの実在そのものであって、トマトをどのように見るかではない。そこに人間の感情というものはいっさい入らないのである。


 本質とは時流に沿って見えたり見えなくなったりするものではなく、人間の多様性の物の見方や考え方とはまったく無関係に初めから存在しており、それは決して変わらないものである。


 これを追求している人のことを一歩先を行っている人だという。


 一歩先へ行っている人は、その者が発見したことを周囲にわからせるために、あえて半歩先の基準まで意識を落として考える者もいるだろう。だがそうじゃない人もいる。



 そもそも目的と手段とは、半歩先へ行く者の心構えである。


 本質を追求する者は、それらをいったん脇に置く。


  そこからが難しくなる。

 言い換えれば、それまではとても簡単である。


 実行することが難しいことと簡単なことと2つのうち、いずれを選択するかはあなた次第だ。


 情報とは常に遅いものだ。しかも半歩先へ行っているわけではなく、単なる雑談にすぎないからである。